せんげん(ひらがな)

  2010ねん10がつ31にち、かりほうめんしゃのかいは けっせいされました。かりほうめんしゃのかいは、かりほうめんしゃ じしんによって つくられ、かりほうめんしゃ じしんによって きょうまで かつどうしてきました。

 

  かりほうめんしゃは、にゅうかんから たいきょきょうせいれいしょ はっぷ をうけ、くにに かえるように さまざまな プレッシャーを かけられ、おどされながらも、きこくできない じじょうがある ものたちです。かりほうめんしゃの おおくは、にゅうかんでの きびしくながい しゅうようせいかつを おくり、しかし なかまたちとともに ざいりゅうしかくを てにいれて にっぽんに のこることを えらびました。

 

  かりほうめんしゃが きこくしない、きこくできない りゆうは、いろいろです。なんみんであること、かぞくが にっぽんにいること、ながく にっぽんで くらしてきたこと、などなど。しかし、そのような いろいろなじじょうの ちがいをこえて、わたしたちは かりほうめんしゃとして だんけつすることを めざしてきました。

 

「かりほうめんしゃに ざいりゅうしかくを!」

 

  これが、わたしたちが かりほうめんしゃのかいを つくってから、ずっと かかげてきた もくひょうです。たとえば「なんみんに ざいりゅうしかくを!」でもなく、あるいは「にっぽんに かぞくのいるひとには ざいりゅうしかくを!」でもありません。わたしたちが うったえてきたのは、「かりほうめんしゃに ざいりゅうしかくを!」です。

 

  なんみんも なんみんでないものも、にゅうかんによって にんげんとして あつかわれてこなかった てんでおなじです。また、にっぽんに かぞくがいるものも、そうでないものも、にゅうかんに「にんげんより したのそんざい」として あつかわれてきた てんでおなじです。つまり、にゅうかん、にっぽんせいふは、わたしたち“すべて”をにんげんとして みていないのです。

 

  だから、わたしたちは、“すべてのかりほうめんしゃ”として いっしょに たたかってこなければ ならなかったのです。なんみんも なんみんでないものも、けっこんしているものも けっこんしていないものも、けいむしょにいったものも ただのオーバーステイのものも、“すべてのかりほうめんしゃ”としての だんけつを めざさなければならなかったのです。

 

  たちばのちがい、じじょうのちがいを こえて、わたしたちは ようきゅうします。わたしたちの“すべて”をにんげんとしてあつかえ、と。そして、このわたしたちの ようきゅうは、にっぽんでくらす すべての がいこくじんにたいする にっぽんせいふの かんがえかたを かえさせる、というおおきな もくひょうへと つながっていきます。

 

  1940ねんだいから いままで、がいこくじんに たいするにっぽんせいふの かんがえかたの きほんは、かわっていません。それは、ひとつには「がいこくじんには じんけんがない」という かんがえかたです。もうひとつには、「がいこくじんを どうあつかおうが、にっぽんせいふの じゆうだ」という かんがえかたです。1965ねんに、ほうむしょう にゅうこくかんりきょく さんじかん だった いけがみつとむは、じぶんのほんで がいこくじんは「にてくおうが やいてくおうが じゆう」だとかいています。

 

  また、1978ねんには さいこうさいばんしょが、マクリーンじけんはんけつ(*1)という、じじつじょう がいこくじんに じんけんはないと いっているにひとしい はんけつをだしています。マクリーンじけんとは、にっぽんにすんでいた あめりかじんのロナルド・アラン・マクリーンさんが ベトナムせんそうに はんたいするかつどうを したために、にゅうかんが かれの ざいりゅうきょかの こうしんを みとめなかった という じけんです。マクリーンさんは、これに なっとくできずに さいばんを おこしました。しかし、さいこうさいばんしょは、がいこくじんの ざいりゅうきかんのこうしんを みとめるかどうかは、ほうむだいじんが かってに きめてよいことで、それをきめるときに その がいこくじんの じんけんなんて きにしなくても よいのだ というような いみのはんけつを だしました。まさに、「がいこくじんには じんけんがない」「がいこくじんを どうあつかおうが、にっぽんせいふの じゆうだ」という にっぽんせいふの かんがえかたを、さいばんしょまでもが みとめたわけです。

 

  この ながくつづいてきた にっぽんせいふの かんがえかたが かわらなければ、わたしたちは けんりのある にんげんとして にっぽんで せいかつしていくことは できません。たとえ、あるひ、ざいりゅうしかくを みとめられたとしても、つぎのひには、ざいりゅうしかくを とりあげられる かもしれません。

 

  だから、わたしたちは、「かりほうめんしゃに ざいりゅうしかくを!」という もくひょうの さらに むこうに、もっと おおきな もくひょうを かかげます。すべてのがいこくじんの じんけんが みとめられる しゃかいへと にっぽんのしゃかいを かえていく、ということです。そのためには、「がいこくじんには じんけんがない」「がいこくじんを どうあつかおうが、にっぽんせいふの じゆうだ」という にっぽんせいふの かんがえかたを かえさせなければ なりません。

 

  この にっぽんせいふの かんがえかたを かえさせ、にっぽんの しゃかいを かえるという もくひょうに ちかづいていくために、わたしたちは、わたしたちより まえに にっぽんに やってきた がいこくじんたちの ながいたたかいの れきしと けいけんから おおくのことを まなぶことが できます。けんりを かちとるために たたかってきた かれら・かのじょらの れきしは わたしたちに ゆうきを あたえ、その けいけんは わたしたちに ちからを あたえてくれます。そして、わたしたちも おなじように にっぽんせいふの かんがえかたと にっぽんの しゃかいを かえるための たたかいを つづけることで、わたしたちの こどもたちや、わたしたちより あとに にっぽんに やってくる がいこくじんたちに、ざいさんを のこすことが できるでしょう。また、がいこくじんを さべつしない しゃかいを つくっていくことは、にんげんどうしの びょうどうで じゆうなかんけいをのぞむ にほんじんたちにとっても よいことであるとしんじます。

 

  にゅうかん、にっぽんせいふは、わたしたちを にんげんとして あつかってきませんでした。しかし、わたしたちは、それぞれの じじょうやたちば、あるいは こくせきやじんしゅや みんぞく、しそうしんじょうや しゅうきょう、せいべつや せいてきしこう などをこえて びょうどうな にんげんとして みとめあうことが できるはずです。そうして おたがいを びょうどうな にんげんとして みとめあい、わたしたちの なかにある さべつとも たたかいながら、にゅうかんや にっぽんせいふ、また にっぽんしゃかいに むかって しゅちょうしていきます。「わたしたちには じんけんがある。わたしたちが ここにいるのは わたしたちのけんりである」と。

 

2013ねん10がつ27にち  とうきょういたばしにて

かりほうめんしゃのかい(PRAJ)いちどう

 

ちゅうしゃく

*1  マクリーンじけんはんけつ

  ながくなりますが、マクリーンじけん はんけつから いんようします。

 おもうに、けんぽうだい3しょうの しょきていによる きほんてきじんけんの ほしょうは、けんりの せいしつじょう にっぽんこくみん のみを そのたいしょうとしていると かいされるものを のぞき、わがくにに ざいりゅうする がいこくじんに たいしても ひとしくおよぶものと かいすべきであり、せいじかつどうの じゆうについても、わがくにの せいじてき いしけってい または そのじっしに えいきょうを およぼす かつどうなど がいこくじんの ちいに かんがみ これをみとめることが そうとうでないと かいされるものを のぞき、そのほしょうが およぶものと かいするのが、そうとうである。しかしながら、ぜんじゅつのように、がいこくじんの ざいりゅうの きょひは くにの さいりょうに ゆだねられ、わがくにに ざいりゅうする がいこくじんは、けんぽうじょう わがくにに ざいりゅうする けんり ないし ひきつづき ざいりゅうすることを ようきゅうすることができる けんりを ほしょうされているものではなく、ただ、しゅつにゅうこくかんりれいじょう ほうむだいじんが そのさいりょうにより こうしんを てきとうと みとめるに たりる そうとうの りゆうが あるとはんだんする ばあいに かぎり ざいりゅうきかんの こうしんを うけることが できるちいを あたえられているに すぎないものであり、したがつて、がいこくじんに たいする けんぽうの きほんてきじんけんの ほしょうは、みぎのような がいこくじん ざいりゅうせいどの わくないで あたえられているに すぎないものと かいするのが そうとうであつて、ざいりゅうのきょひを けっする くにの さいりょうを こうそくするまでの ほしょう、すなわち、ざいりゅうきかんちゅうの けんぽうの きほんてきじんけんの ほしょうをうける こういを ざいりゅうきかんの こうしんのさいに しょうきょくてきな じじょうとして しんしやくされないことまでの ほしょうがあたえられているものと かいすることはできない。ざいりゅうちゅうの がいこくじんの こういが ごうけんごうほうな ばあいでも、ほうむだいじんが そのこういを とうふとうのめんから にほんこくにとつて このましいものとはいえないと ひょうかし、また、みぎ こういから しょうらい とうがいがいこくじんが にほんこくの りえきをがいする こういを おこなうおそれが あるものであると すいにんすることは、みぎ こういが じょうきのような いみにおいて けんぽうの ほしょうを うけるものであるからといつて なんら さまたげられる ものではない。

 

  いま いんようした ところで このはんけつが いっているのは、おおむね つぎのような ことです。

にっぽんこくけんぽうに さだめられている きほんてきじんけんは、にっぽんに すんでいる がいこくじんにも ほしょうされる。せいじかつどうの じゆうについても、おなじく がいこくじんにも ほしょうされる。しかし、がいこくじんが にっぽんにすんでよいかどうかは、ほうむだいじんが じゆうにきめてよい。

したがって、がいこくじんの きほんてきじんけんは、にっぽんの がいこくじんざいりゅうせいどの わくのなかで あたえられているにすぎない(つまり、がいこくじんにざいりゅうしかくを みとめるか みとめないかについての にっぽんせいふの はんだんは、きほんてき じんけんを ほしょうした けんぽうのわくをこえた、その そとがわでなされるものである)。

にっぽんに すんでいる がいこくじんの ざいりゅうしかくの こうしんを みとめるかどうかを はんだんするときに、にっぽんせいふは、きほんてきじんけんについて さだめた にっぽんこくけんぽうのじょうぶんを きにしなくてよい。

にっぽんに すんでいる がいこくじんが にっぽんの けんぽうや ほうりつを まもっていたとしても、ほうむだいじんは、そのがいこくじんが「にっぽんにとって よくない」「にっぽんの りえきをそこなうかもしれない」とかんがえるならば、ほうむだいじんが そうかんがえた ということを りゆうにして、その がいこくじんの ざいりゅうきかんの こうしんを みとめなくてもよい。そのばあい、ほうむだいじんは そのがいこくじんの じんけん なんて きにしなくてよい。

 

  この はんけつは、けんぽうは がいこくじんの きほんてきじんけんを ほしょうしているとも いちおうは いっています。しかし、がいこくじんの ざいりゅうきかんの こうしんを みとめるかどうかについて、ほうむだいじんの はんだんのじゆうを とても ひろく みとめています。“ほうむだいじんの かんがえかたしだいで、がいこくじんの ざいりゅうしかくを みとめてもよいし、みとめなくてもよい。ほうむだいじんが それを はんだんするにあたって、にっぽんこくけんぽうの きほんてきじんけんの ほしょうを さだめた じょうぶんに とらわれなくてもよい”といっているわけです。これは、にっぽんこくけんぽうが ほしょうしている じんけんは、にほんじんだけのもので、がいこくじんには ないのだ、といっているのと おなじことです。

  この、ほうむだいじんの じゆう、けんげんを とてもひろくみとめた1978ねんの はんけつは、いまの さいばんでも にゅうかんが しょっちゅう いんようしています。